P--1357 P--1358 P--1359 #1後世物語聞書    後世物語聞書 【1】 ちかごろ浄土宗の明師をたづねて洛陽東山の辺にまします禅坊にまゐり てみれば、一京九重の念仏者、五畿七道の後世者たち、おのおのまめやかに、 衣はこころとともに染め、身は世とともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎ り、十四五人ばかりならび居て、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべ きと、これをわれもわれもとおもひおもひにたづねまうししときしも、まゐり あひて、さいはひに日ごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむきたち どころにしるして、ゐなかの在家無智のひとびとのためにくだすなり。よくよ くこころをしづめて御覧ずべし。 【2】 あるひと問うていはく、かかるあさましき無智のものも念仏すれば極楽 に生ずとうけたまはりて、そののちひとすぢに念仏すれども、まことしくさも ありぬべしともおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。 P--1360  師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧 もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して生死 をはなれ、菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して 往生をばねがへ。 【3】 またあるひと問うていはく、いみじきひとのためには余教を説き、いや しきひとのためには念仏をすすめたらば、聖道門の諸教はめでたく浄土門の一 教は劣れるかと申せば、  師答へていはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれは いやしくとも、わが身の分にしたがひて流転の苦をまぬかれて、不退の位を得 ては、さてこそあらめ。ふかきあさきを論じてなににかはせん。いはんや、か のいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏に成るといふも、このあさま しき身の念仏して往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、お ちつくところはひとつなり。善導ののたまはく、「八万四千の門〔あり〕、門々 不同にしてまた別なるにあらず。別々の門はかへりておなじ」(法事讃・下)と いへり。しかればすなはち、みなこれおなじく釈迦一仏の説なれば、いづれを P--1361 勝れり、いづれを劣れりといふべからず。あやまりて『法華』の諸教に勝れた りといふは、五逆の達多、八歳の竜女が仏に成ると説くゆゑなり。この念仏も またしかなり。諸教にきらはれ、諸仏にすてらるる悪人・女人すみやかに浄土 に往生して迷ひをひるがへし、さとりをひらくは、いはばまことにこれこそ諸 教に勝れたりともいひつべけれ。まさに知るべし、震旦(中国)の曇鸞・道綽 すら、なほ利智精進にたへざる身なればとて、顕・密の法をなげすてて浄土を ねがひ、日本の恵心(源信)・永観も、なほ愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業 因をすてて願力の念仏に帰したまひき。このごろかのひとびとに勝りて智慧も ふかく、戒行もいみじからんひとは、いづれの法門に入りても生死を解脱せよ かし。みな縁にしたがひてこころのひくかたなれば、よしあしとひとのことを ば沙汰すべからず、ただわが身の行をはからふべきなり。 【4】 またあるひと問うていはく、念仏すとも三心をしらでは往生すべからず と候ふなるは、いかがし候ふべき。  師のいはく、まことにしかなり。ただし故法然聖人の仰せごとありしは、 「三心をしれりとも念仏せずはその詮なし、たとひ三心をしらずとも念仏だに P--1362 申さば、そらに三心は具足して極楽には生ずべし」と仰せられしを、まさしく うけたまはりしこと、このごろこころえあはすれば、まことにさもとおぼえた るなり。ただしおのおの存ぜられんところのここちをあらはしたまへ。それを ききて三心にあたりあたらぬよしを分別せん。 【5】 あるひといはく、念仏すれどもこころに妄念をおこせば、外相はたふと くみえ内心はわろきゆゑに、虚仮の念仏となりて真実の念仏にあらずと申すこ と、まことにとおぼえて、おもひしづめてこころをすまして申さんとすれど も、おほかたわがこころのつやつやととのへがたく候ふをばいかがつかまつる べき。  師のいはく、そのここちすなはち自力にかかへられて他力をしらず、すでに 至誠心のかけたりけるなり。くだんの、口に念仏をとなふれどもこころに妄念 のとどまらねば、虚仮の念仏といひて、こころをすまして申すべしとすすめけ るも、やがて至誠心かけたる虚仮の念仏者にてありけりときこえたり。そのこ ころに妄念をとどめて、口に名号をとなへて内外相応するを、虚仮はなれたる 至誠心の念仏なりと申すらんは、この至誠心をしらぬものなり。凡夫の真実に P--1363 して行ずる念仏は、ひとへに自力にして弥陀の本願にたがへるこころなり。す でにみづからそのこころをきよむといふならば、聖道門のこころなり、浄土門 のこころにあらず、難行道のこころにして易行道のこころにあらず。これをこ ころうべきやうは、いまの凡夫みづから煩悩を断ずることかたければ、妄念ま たとどめがたし。しかるを弥陀仏、これをかがみて、かねてかかる衆生のため に、他力本願をたて名号の不思議にて衆生の罪を除かんと誓ひたまへり。され ばこそ他力ともなづけたれ。このことわりをこころえつれば、わがこころにて ものうるさく妄念・妄想をとどめんともたしなまず、しづめがたきあしきここ ろ、乱れ散るこころをしづめんともたしなまず、こらしがたき観念・観法をこ らさんともはげまず、ただ仏の名願を念ずれば、本願かぎりあるゆゑに、貪・ 瞋・痴の煩悩をたたへたる身なれども、かならず往生すと信じたればこそ、こ ころやすけれ。さればこそ易行道とはなづけたれ。もし身をいましめ、こころ をととのへて修すべきならば、なんぞ行住坐臥を論ぜず、時処諸縁をきらは ざれとすすめんや。またもしみづから身をととのへ、こころをすましおほせて つとめば、かならずしも仏力をたのまずとも生死をはなれん。 P--1364 【6】 またあるひとのいはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかり に照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとし ひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろく なる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあら ねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこ そ候へ。  師のいはく、このことひとごとになげく心根なり。まことに迷へるこころな り。これなんぞ浄土に生ぜんといふみちならんや。すべて罪滅すといふは最後 の一念にこそ身をすててかの土に往生するをいふなり。さればこそ浄土宗とは 名づけたれ。もしこの身において罪消えばさとりひらけなん。さとりひらけ ば、いはゆる聖道門の真言・仏心・天台・華厳等の断惑証理門のこころなるべ し。善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり、ひとつ には、「ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、 つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすす めて、つぎに、「弥陀の誓願の深重なるをもつて、かかる衆生をみちびきたま P--1365 ふと信知して、一念も疑ふこころなかれ」とすすめたまへり。このこころを得 つれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかひこそ、あはれに めでたくたのもしけれと仰ぐべきなり。もとよりわが力にてまゐらばこそ、わ がこころのわろからんによりて、疑ふおもひをおこさめ。ひとへに仏の御力に てすくひたまへば、なんの疑かあらんとこころうるを深心といふなり。よく よくこころうべし。 【7】 またあるひとのいはく、曠劫よりこのかた乃至今日まで、十悪・五逆・四 重・謗法等のもろもろの罪をつくるゆゑに、三界に流転していまに生死の巣守 たり。かかる身のわづかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなへにおこりて善 心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳を焼く。よきこころにて申す念 仏は万が一なり、その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがふといふ とも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまたさるこころをな ほさずはかなふまじと申すときに、げにもとおぼえて、迷ひ候ふをば、いかが し候ふべき。  師のいはく、これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひ P--1366 わづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。 善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみな ば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」 (散善義・意)といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされん や。他力の功徳むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。たとひ欲もおこりはらも たつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、か ならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。 摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りて いひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは 如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり、これをよ くよくこころうべし。 【8】 またあるひといはく、簡要をとりて三心の本意をうけたまはり候はん。  師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意な り。わが身の分をはからひて、自力をすてて他力につくこころのただひとすぢ なるを真実心といふなり。他力をたのまぬこころを虚仮のこころといふなり。 P--1367 つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、疑なきを信心の本意とす。 いはゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人・賢人 のためにあらずとこころえつれば、わが身のわろきにつけても、さらに疑ふお もひのなきを信心といふなり。つぎに本願他力の真実なるに入りぬる身なれ ば、往生決定なりとおもひさだめてねがひゐたるこころを回向発願心といふ なり。 【9】 またあるひと申さく、念仏すれば、しらざれども三心はそらに具足せら るると候ふは、そのやうはいかに候ふやらん。  師答へていはく、余行をすてて念仏をするは、阿弥陀仏をたのむこころのひ とすぢなるゆゑなり、これ至誠心なり。名号をとなふるは往生をねがふこころ のおこるゆゑなり、これ回向発願心なり。これらほどのこころえは、いかなる ものも念仏して極楽に往生せんとおもふほどのひとは具したるゆゑに、無智の ものも念仏だにすれば、三心具足して往生するなり。ただ詮ずるところは、煩 悩具足の凡夫なれば、はじめてこころのあしともよしとも沙汰すべからず。ひ とすぢに弥陀をたのみたてまつりて疑はず、往生を決定とねがうて申す念仏 P--1368 は、すなはち三心具足の行者とするなり。「しらねどもとなふれば自然に具せ らるる」と聖人(源空)の仰せごとありしは、このいはれのありけるゆゑなり。 【10】 またあるひとのいはく、名号をとなふるときに、念々ごとにこの三心の 義を存じて申すべく候ふやらん。  師のいはく、その義またあるべからず。ひとたびこころえつるのちには、た だ南無阿弥陀仏ととなふるばかりなり。三心すなはち称名の声にあらはれぬ るのちには、三心の義をこころの底にもとむべからず。 後世物語聞書